提言 II 「福島県民のみなさまへ、すぐに答えを出さないでください

(2011.5.12)

 

 

 

原発事故による低線量被曝(とりわけ退避する「大義名分」がない年間20mSv以下)に直面している地域のみなさまへ、お願いがございます。一日でも早い復興を願うみなさまの前向きなお気持ちに水を差すようで大変心苦しいですが、ご一読して頂ければ幸いです。

 

 


(1)「低線量の被曝なら安心である」と決めつけないでください

 

低線量被曝の健康影響については、先の提言でも申し上げた通り、専門家のあいだでも意見がわかれています。答えを出すまえに、それぞれの立場の専門家の意見をよく聞いてください。

 

 

 

(2)結論を出すまでのあいだは、とりあえず防護してください

 

正直、私自身、どの学説が正しいのか判断できずにおります。

 

さんざん考え抜いた挙げ句、「これくらいの被曝なら安心だ」という結論に達することになるかもしれません。しかし逆に、「やはり危ないのではないか」と結論づけることになるかもしれません。

 

私が後々どのような結論を下すことになるのか、現時点では私にも分かりません。


ただ、答えに辿り着くまでのあいだは、とりあえず「危険である」との前提に立ち、生活上可能な範囲で自己防護をしておく方が合理的だと思われます。

 

 

 

(3)悩み考えることから逃げないでください

 

「どの学説が正しいのか、答えがわからない」という状態が続くのは、とても辛いことです。一日でも早く安心を手に入れて、もとの生活に戻りたいと思うのは当然です。


低線量被曝の危険性を考えることの苦しみから逃れたいのは私も同じですが、それでも敢えて、とことん悩み続けるべきだと主張します。なぜなら、原発事故が人類にもたらす「コスト」を、決して過小評価してはならないからです。

 

悩み続ける、というのは大きな心理的負担をともないます。心理的負担は、広い意味での「コスト」です。


私たちは、原発事故というものがいかに「高くつく」かを忘れるべきではありません。それを忘れ去ってしまえば、きっとまた、甘い誘惑に負けて原発を受け入れてしまう日が来るでしょう。

 

同じ過ちを繰り返すべきではありません。

 

 


(4)それぞれが悩み抜いて出した答えは、互いに尊重しましょう

 

もしもある人が、さんざん考え抜いた挙げ句に「安全」という答えを出したなら、基本的にはそれは尊重されるべきです。また、ある人が「危険」という答えを出したなら、それも尊重されるべきです。


「安全」と言う人からみれば、「危険」と言う人の過剰な防護を嘲笑したくなるかもしれません。

 

しかし、熟慮を重ねて「危険」という結論に辿り着いた人には、それなりの根拠があるはずです。一個の人間として、それを嘲笑すべきではありません。

 

 

 

(5)理想と現実は別ですが、理想を変える必要はありません

 

たとえば、みなさまがいろいろと考え抜いた結果、「平常時の放射線量(福島市なら毎時0.04μSv)を取り戻す」という結論に達したとしましょう。ついこの間までは当たり前だった環境が、いまとなっては究極の理想のように思えてしまいます。

 

このような理想を掲げても、現実には、数々の物理的要因、経済的要因、政治的要因により、すぐに実現することは極めて困難かもしれません。「あまりに非現実的な要求だ」と諭す人もいるでしょう。

 

ですが、まったく気にする必要はありません。

 

戦争のない平和な世の中は「理想」ですが、その実現を求め続ける行動は無意味ではありません。

アリストテレスになることは「理想」ですが、それに近づこうとする努力は無意味ではありません。


ならば、平常時の環境を少しでも取り戻すために自分なりの行動を積み重ねていくことが、無意味なはずはありません。

 

もちろん、もと通りの福島を取り戻すには莫大が資金が必要ですが、財源には限りがあります。徹底的に除染を行うためには莫大な労力および資源が必要ですが、これらにも限りがあります。それらのコストのすべてあるいは一部を広く社会に要求するのは、県民のみなさまにとって心苦しいことかもしれません。

 

国の限りある財政のなかで、社会全体がどれくらいを福島のために拠出するのが公平なのか、すぐに答えは出せません。しかし、何が公平かという議論は国全体でなされなくてはなりません。

 

「被曝しながら地元に住み続けるか、それがイヤなら県外に出るか」という二者択一論は、すべての国民がこれと同じ選択を迫られているのであれば平等です。でも、その二者択一を福島県民「だけ」に迫るのは、どう考えても理不尽で不公平です。

 

明らかなことは、県民のみなさまが声を上げなければ、理不尽で不公平な負担を強いられたままであり、原発事故がいかに「高くつく」かという認識が国民全体で共有されることはない、ということです。

 

福島原発の不幸な事故は、コストを過小評価して原発を推進してきた国全体に対する教訓にしなければなりません。原発事故がもたらす莫大なコストを社会全体で相応に負担することによってはじめて、国民全員が原発を持つことの深刻さと向き合えるのです。

 

もと通りの福島を再び目にするのはいつの日になるのか、わかりません。それでも、それを目指して進む長い道程において、多くのものが得られるに違いありません。

 

 

 

 

 

 

(文責:石田 葉月)


英語版はこちらです(東京大学の影浦峡先生によるものです。この場を借りて、深く感謝致します)

 

 





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